■アメリカ大陸を横断する楽しみ
このゲームはアメリカを舞台としており、アメリカ大陸を徒歩やバイク、車で横断すると言うアメリカ人特有の楽しみや憧れを体験できる。
ただ一つ残念なのは、アメリカ大陸らしさを感じられない部分が多いことだ。
例えばロッキー山脈を越えたらカリフォルニア、と言った楽しみはない。
また、世界が分断されており、3箇所はフラジャイルジャンプを使わないと行き来できず、持ち物を持っていけないので不便である。
それも、この世界特有のリミッターを設けることで、難易度を調節しているのかもしれないが。
■死生観
デスストランディングで人を殺してしまうと、焼却しない限り対消滅を起こし、クレーターができ、さらにBTという化け物に襲われることになる。
ほかのゲームでは人が死んでも基本は放置。これも良くないとの判断であろう。(私も常々人の死生観を狂わしているのではと思っていた)。
「人が死ぬと言うことは大変なことなんだよ」と言う死生観をわかりやすくゲームで伝えている。倫理観を今時の若手に伝えるにはまず、とにかく大変で手間がかかると言うことから伝えなければならない。
■資本主義の欲望を絶った世界観
まず、金銭という概念が存在しない。
そもそも、このディストピア世界では、マッドマックスのように、資源がすべてものをいう。
ただし、奪い合いをするという感じではない。資源自体はあるところには大量にある。(ミュールが狙っているのは資源ではなく、荷物タグである。彼らは承認欲求を盗もうとしているので、どちらかというとパクツイなどに近い)。
配達をしても、金銭で報酬を受け取ることはできない。金銭が存在しないからだ。
だが不思議なもので、喜ばれればかなりのオキシトシンが分泌されるのを感じる。
そう、快楽なのである。
■持ち物が個人のものではない、シェアの概念
荷物の所有という概念が薄い。
ミュールは荷物を奪っても、それを消費しないので、追えば取り戻せる。
承認欲求のための、デリバリー仕事の奪い合いといった感じだ。
しかし、仕事すらシェアできる。荷物を別のユーザにシェアして配達してもらうこともできる。
また、プライベートボックスはそこにいかないと荷物が取り出せないし自分のものしか入れられないが、シェアボックスの場合は他人が入れたものを自由に使える。
乗り物も一度自分のをつくったものの、野外にまともな駐車場もなく、キーもないので、バイクなどは他人が乗り捨てたものを拾うのが当たり前になってくる。
バイクはじきにぼろぼろになるが、拠点で駐車場まで持ち帰ればピカピカにしてくれる。
私が運転免許をとったのは、すでにカーシェアが主流となりはじめた頃だった。
わたしはカーシェアというのはすばらしい発明だと思う。
今、自転車すらシェアになっている。結婚式や葬式の礼服もレンタルだ。
個人の駐車場という概念がなくなりつつあるのだ。
月額で駐車場料金を支払うのは都会では馬鹿馬鹿しい。カーシェアはガソリン代もクリーニング代も、駐車代も込みになっているからだ。
自転車シェアはポートに返せば、あとは全て料金に込みである。観光地では大活躍する。
金銭的にも助かるのだが、エコでもある。
これからは、人のために、丁寧にものを使うようになるだろう。そしてそれは、自分勝手な人間を減らすことにもなる。
■シェアエコノミーから生じる、独占欲の低いフラットな人間関係
資本主義が限界に近づいているのは、資源を独占し、高値をつけてもうけることに腐心するやつらがいるからだ。だが、それが資本主義の本質にほかならない。
かつては社会主義が嫌悪される傾向もあったが、それはおそらく欧米が自分を正当化し、もうけるためでもあるだろう。
善悪ではなく、合理的に考えるべきなのだ。
どちらが、地球という共通資源のために優しいのか。
設置したロープ、梯子、橋、国道なども所有物ではない。他人とシェアするものになる。
いま、わたしたちがあたりまえのように使っている国道も、誰かがつくってくれたものだ。
そう考えるとデスストランディングでなにもない状態から道路をつくりあげていく作業は、開拓魂を喚起し、そして現状の日本が大変きちんとしていることに感謝できる。
ところで余談だけど、カンボジアって国は貧乏なので、観光地シェムリアップであっても、道路は舗装されていない。
大変移動しにくい上、横断歩道やまともな信号がないので道を渡るには一苦労で時間がかかる。
旅に出れば上記のことは体験できるが、海外旅行は何万もする。
ゲームで手軽に体験するにはデスストは良い教材と言える。
当たり前のことに感謝し、
他人がいることに感謝出来る。
そして、自分も他人に働きかけて、感謝される。
なにも、友達になる必要はない。
恋人をつくらなければ!結婚しなくては!という世界ではない。
荷物の中には、精子や卵子もある。
つまり、結婚しなくては子供をつくれないという社会ではない。
こどもすらも、すでに共通の資源となりつつあるのだ。
自然を他人を思いやる。その相手は自分だけの恋人のような、支配欲を満たす対象ではない。「知らない誰か」のために少しでも、親切をする。
この精神がこれからの世界に必要であることを、小島監督は理解しているのだと思う。
■優しい世界
現代っ子はメンタルが弱く、優しい世界を求めているといわれている。
これは私にとっては喜ばしいことである。私は子供の頃からコミュ障だったし、他人と競争して勝ったりすることに喜びを感じられなかった。
(ただし、悪は許せないと思っている)
資本主義が最高潮のころや、日本の経済が上調子だった時は、他人をひきずりおろして自分が上に立つことが、かっこいいとされていたこともある。
だが、現代にはその考え方は合わなくなってきている。
ひとりの人間が私腹をこやしたところで、税金に反映されなければ国道はいつまでたっても完成しない。
デスストはまさにそれを体現しており、資源を独占しても、国道を作らなければ自分にも不利になる。結果的に自分と他人を同時に救うために資源を使うことになる。
ほかの人間を蹴落として、ムスカのようにひとりぼっちになって、金にものをいわせて女を買おうとしても、誰もついてこない。
ひとりが悪いのではない。
自分勝手が良くないのである。
利己主義に走りつづけると、誰も金を使わないので経済がまわらなくなり、好きだったお店やブランドが閉店していく。現に今日本と言う国は、大手チェーンのお店で埋め尽くされており、地方都市に移住したところで生活に変化がほとんどない。
人間はひとりでいても、必ず他人の恩恵を受けている。
金銭は単なる道具であり指標である。
働くことで、他人に恩を返せるのだ。
デスストランディングは、他人に対して優しくしようなどという単純な発想ではつくられていない。
シェアをすること、自分もその恩恵を受けること、それが結果的に優しい世界になるという事象をゲームを使ってユーザーに体験してもらえるよう、ステージをつくりあげているのである。
万物は、諸行無常であるがゆえ、ともにつくった橋もいずれ老朽化していく。ゲームもそうなっている。
比較的資源が手に入りやすい設定にしてあるが、実際はご存知のとおり、日本は資源に乏しい国である。
このゲームを通して、社会の仕組みを今一度再確認し、なぜシェアが重要なのかを考えたい。
そして、まだ若い世代や子供達にも、このゲームを通して、助け合いの精神を学び、社会の成り立ちについて考えてほしい。
そんな、崇高な意思すら感じるゲームだと思う。
ほか作品のオマージュを感じる部分:
サムの血液が万能:マッドマックス怒りのデスロード
フラジャイル:マッドマックス怒りのデスロード
BT:
もののけ姫
ICO
BB:2001年宇宙の旅
くさむら攻撃:アンチャーテッド
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