2022年10月16日日曜日

「マスク・オブ・ゾロ」におけるヒーロー像

マスク・オブ・ゾロはバットマンの原作にもなったとか言われている、古い小説「怪傑ゾロ」をもとにした映画である。昔TV放映されてて見たような覚えがあるんだけど、今回ちゃんと見直してみた。

ゾロはお貴族様なんだけど、黒い覆面をかぶって(といってもはちまきみたいなやつ)民衆を助ける、バットマンと同じく「自主的なヒーロー」である。

映画の冒頭で、初代ゾロ(アンソニー・ホプキンス)は正体を見破られ、自宅に押し入ったラファエロっていう、政府の偉い人に逮捕され、嫁が殺され、乳飲み子の娘はさらわれてしまう。

このあと、本編の主人公のアレハンドロ(アントニオ・バンデラス)が出てきて、 兄を殺されたと嘆いていたところ、昔ゾロからもらったメダルを初代ゾロに見つけられる。(ゾロはアンソニーホプキンスらしい奇策で脱獄してきたのだ)

これがきっかけで、ゾロに多大なあこがれをいだいていたアレハンドロは2代めとして修業を受けるのであった。

これだけだったら、単なるエンタメアクション映画だと思うし、ちゃんと見てないとそれだけしか感じとれないかもしれないけど、アクション映画として非常に完成度が高いのであまり気にならないかもしれない。つまりなんとなく見てても面白いのは面白いのだ。

だけどこの映画が、ただのヒーロー映画として終わらなく、映画を観る目が肥えてる人も唸らせる理由はこの初代ゾロの悲しみにある。

ゾロはかつて、自主的に民衆を救い、たたえられていた。本物のヒーローだった。

しかし、傍若無人に逮捕され、20年も投獄されていた。嫁は殺されているし、娘はなんとラファエロの娘にされてしまっていたのだ。

20年。

ちょうどザ・バットマンのブルースが両親を殺されてからの月日と同じ経過時間だ。

映画の途中、やる気満々で若いアレハンドロが、初代ゾロから言われる冷水のような言葉がある。

「私は民衆のために戦ったが、その見返りとして、妻を失い、娘は奪われ、そして人生も失った」

ヒーローをやっても失うものばかりだったことをアレハンドロに告げる。このシーンは結構刺さった。とても怖いことだと思った。ヒーローの本質はここなのだ。

ゾロも貴族だったし、お金に余裕があったからこそ、覆面ヒーローができたんだと思う。だけどバットマンもそうだけど、別に見返りなんかないのだ。自己満足なのだ。政治を邪魔したら、テロリストとして逮捕されても文句は言えないかもしれない。ザ・バットマンでもなんども警察に怒られている。本当は、「邪魔」な存在なのである。

これがヒーローの本質なのだ。

逆に考えてみたらどうだろう。

ではなぜヒーローものがもてはやされるのか。

それはおそらく、「警察への不満」「政府への不満」がそうさせるのであろう。

本来のヒーローは、警察、消防士、レスキュー隊、自衛隊、政治家であり、その下にいる民衆だって、それぞれがヒーローになれる。

だけど、普通の人間はあまりにも無力だし、お金にも弱いから、アベンジャーズみたいに、なんかすごい能力をもったヒーローになれたらいいなあなんて思うのかもしれない。

それでいうと、ゾロやバットマンなんかは特に能力をもっていない。持っているのはお金だけだ。つまり余裕があるということ。だけど、現代社会だったらちゃんと寄付するなり、社会に役に立つようにお金をまわせばいいだけの話なのだ。今年のバットマンではそれが割と生々しく描かれていた。

そんな現実的な話は聞きたくないし見たくもないよ。と言う人は、若くてかっこいい新しいヒーローアレハンドロに釘付けになればいいし(貴族に扮するバンデラスのイケメンっぷりはハンパない)、現実がうまくいかないことを知っている人は、初代ゾロのアンソニー・ホプキンスの哀愁漂う素晴らしい芝居に酔いしれればよい。

つまりこの映画のすごいところは、主人公2人のどちらから見ても楽しめるところだ。また、キャサリン・ゼタ・ジョーンズの情熱的な恋や、女性としてどうあるべきか、みたいな視点から楽しむこともできる。

悪役は単純にサイコパスなところがあって、あまり納得はいかないのだが、上記3人のキャラクターだけでもお腹いっぱいで、楽しい映画だ。

 

0 件のコメント:

コメントを投稿