私は安部公房の「赤い繭」が大好きで、あれが教科書に載っていること自体ご褒美だとしか思えなかった。
あんなの、勉強じゃない。国語、現代文は大好きで点数もよかったけど「赤い繭」は特に格別だった。森鴎外の「舞姫」がマイナス100点で「赤い繭」は200点といったところか。どこが満点なのかわからねーな。
「赤い繭」の最後で男は繭になるが、箱男はその名の通り男が箱に入っている。繭に「帰っていく俺はいない」が、箱男は実は箱に入っているだけで、脱ぐこともできる。
ではなぜ男は箱に入るのだろうか。
原作の小説の完読は間に合わず、途中までしか読んで無いのだが、とある男性は箱に入るとはどういうことなのだ、と「試しに」箱を被ってみる。成人男性が入れる箱なので、かなり大きい。洗濯機が納品時に入れられていた箱である。
そして文章内で彼は葛藤する。なぜか気分がいい。この気分がいいというのはなんだろうか。
例えば私で言えば、トルコのカッパドキアの「洞窟ホテル」なんかは最高だった。人類は古来より、「洞窟で寝る」ことで外敵から身を守っていたのでは無いだろうか。家屋よりはるかに安心できる感情が遺伝子に伝わっているのだ。
あと「寝袋」もいい。袋の中に格納されている安心感がある。頭が出ているのもいい。もしかしたら、赤い繭ってのはミノムシみたいな安心感を示唆しているのかもしれない。
だがこのストーリーは、「箱男は一つの町に一人しか、いてはいけない」という法則があるらしい。理由は不明である。私はやはりメタルギアソリッドを思い出してしまう。
スネークは一人でいい。一人しか、許されていない。と言う謎の法則である。
アメリカ大統領は一人しかいてはいけないと言うそういう感じの法則なのだろうか。
つまりクライマックスはこうだ。箱を被った男が箱を被ったまま、「箱男というアイデンティティ」を争って戦うのである。腕は出してもいいらしい。実に滑稽だが彼らは真剣である。片方は銃を持ち出す。箱を被っているので当たっているのかもわからないw
箱男を変態だと思う人もいるだろう。実際彼らのうちの一人は本物の変態プレイを好んでいる。
あと途中だけど原作でも彼(誰だかもはやわからんが)は、箱をかぶることで現実を覗き見できるのが楽しいようなことを言っていた。
そういえば映画ではひたすら女性の脚ばっかり見ていた。やはり変態である。変態なのだが、どうも様子がおかしい。彼らはまっすぐ生きることができない。なので女性ともまっすぐ関わるような感じではなかった。そして何よりヒロインが一人しか登場しないのだがこの「葉子」は、誰のことも別に特別好きではなく、ただ、変態プレイに付き合っているだけ。彼女は多分「暇つぶし」をしているだけだ。ファブルの「洋子」と大差ない。
そこには女性の敗北も勝利もなく、男性が幻想を見て終わっているような感覚があった。これは現実でもよく起きることである。男性は激しい夢を見て、女性を取り合うが、女性はその誰とも特別な関係を持たず、ただいなくなるだけである。そして男の夢は次のターゲットを探す。だから美女アイドルやグラビアが売れるのでは無いだろうか。
一つだけ言えるのは、赤い繭もそうだったけど作品に出てくる男性がひどく内向的な傾向にあると言うことである。他者と関わるのが苦手で、人間として生きることができなくなり、繭と化してしまう男。真っ当に生きられず、箱を被って生活する男。全部は読んで無いのだけれど、今のところ安部公房の作品はそれに解決を見出さず、ただ退廃的に、自分の殻に閉じこもって終わる作品が多い。
「メタフィクション」
原作は今佳境にあり、誰が「ノート」を書いているかわからない状況になっている。途中から筆記具自体が異なってきているのだ。しかし物語はあくまでもノートに書かれたことになっている。
さて映画内ではアランウェイクと同じセリフが出て来て、「このノートに書かれた通りに話が進む」なんて言い出す。しかも筆跡をコピーしてノートに書き足していく。誰かの話に書き足すなんて、アランウェイクだし、もしかしたらサムレイクがこちらに影響を受けているのだろうか。にしても、メタフィクションで落とすのはオチとしては少し陳腐な感じもする。
難解じゃね?!と思った人には
いや箱男は単純に、「箱に入った男性がすごくシュールで笑える」だけでも面白いと思いますよ。あんまり深く考えなくても、普通に笑えます。想像以上に走るし、想像以上に戦いますよw私としてはどうやって走ってるのかいまいちわからず、苦笑しております。
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