2019年12月15日日曜日

K19という映画

ハリソンフォードにリーアムニーソン。
この2人だけでも観る価値があると思っていたが、内容がキツイと聞いたので敬遠していた。

原子力潜水艦の事故をモチーフにした話で、2人ともロシア人という設定。

リーアムは、設備の不備を訴えたら降格されて、代わりにハリソンが艦長としてやってくる。
が、リーアムのヘルプが必要なので、そのまま2人で同時に任務に就く。

ハリソンは手柄が欲しいため、部下に無茶振りをたくさんし、乗組員を危険に晒す。
激怒するリーアムの演技は相変わらず素晴らしい。
ハリソンの傍若無人っぷりに、繊細なリーアムの心が痛む様と、ハリソンに問い詰められて即座に全力で論理的に言い返す瞬発力。まったく気が抜けず、先が気になってつい観てしまう。

最初の無茶振り任務を終えた乗組員は、氷の上でスポーツをして、楽しそうに写真を撮る。
だが、この後、恐ろしい事故が起きて、8人もの乗組員が重傷となる。

潜水艦の原子炉の冷却水が漏れたのである。

伏線として、リーアムが冒頭で、「こんな安っぽい設備で稼働はできない!」と怒っているシーンがあるが、全てにおいていい加減で不備ばかりの潜水艦。

緊急対策用の設備すら足りていない。
なんと、対放射能用防護服すら用意されておらず、代わりに毒ガス対策くらいの装備しかなかった。

彼らは必死で知恵を絞り、パイプを繋げて冷却水を強引にねじ込むことにする。

だがらそれを繋げるにはなんと、手作業で原子炉に接続しなければならなかった。放射能の量は致死量の10倍。
しかし乗組員は一部を除いて果敢にも原子炉に向かう。例の防護服とは言えない服を被って。戻るなりまっすぐ立てず歩けず、いたる箇所から出血、嘔吐は当たり前の状態。
しかも、一度成功した修理も長く持たなかった。

生きるか死ぬかの瀬戸際での、リーアムの選択が見ものである。

彼は、愚かなハリソンを許す。

艦長とは、上司とはどうあるべきかを静かに説く。

この映画は、一見スリラーのような恐怖映画のようにも見えるが、私には、
「組織とはどうあるべきか」「部下とどう接したら良いのか」「許すと言う力」
について語られていると思う。

リーアムは、部下を愛しており、彼らと肩を並べて酒を飲む。平等な立場と考えている。
そしてリーアムは、部下を「全員家族」と呼ぶ。
彼は、いつも部下に愛され、「あなたこそが艦長だ」と呼ばれる。

しかし、リーアムはハリソンから皆が暴力で地位を奪い、自分に回されたとき、言い放つのだ。

「みんな家族なんだから、こんなやり方は良くない。家族に銃を向けるものではない」と。

果たして、土壇場で全員が海の底で死のうと言うときに、このような選択肢が正しいのか、私には判断できない。

合理的に考えれば、一人でも多くの人間を「生きのびた」ことにしたいから、浮上するかもしれない。

だが、実はハリソンには大きな思惑があり、このまま原子炉を放置して爆発すれば、自分たちだけではなく、他の米国艦も巻き込んで国際問題になるから、自分たちだけが犠牲になれば、と思ったのだ。

ハリソンは言葉が足りなかった。だから、自分たちだけが犠牲になることの大義を、乗組員は理解できなかったのである。


この事故の最大の問題点は政府の、軍のずさんな管理によるものであり、決してハリソンのスパルタな教育によるものではない(確かに、危険な水深に入ることで、機体に亀裂が入った可能性は十分あるのだが)。

リーアムは土壇場で、神のような俯瞰した決断を下した。
だが、彼は神ではない。

神は、彼の心に宿る、「全ての乗組員は家族」と言う愛なのである。

だからこの映画は、決して、サスペンスでも戦争でもなく、偉大な愛の力を説いているものだと私は感じる。

最後どうなるかは、見てのお楽しみだ。

しかし、感覚的にはプライベートライアンよりは泣けなかったし、
やっぱりオスカーシンドラーの方が泣けた。

スピルバーグが同じ題材を料理したら、途方もなく泣ける映画が出来上がったに違いない。

なお、放射能を直接原子炉の近くで浴びることの恐ろしさも見て取れるので、原子力を舐めてる人は一回見た方がいいかもしれない。
しかし、10分でほぼ死ぬと言うのは、、、想像するだに恐ろしい。
核爆弾が広島と長崎に落とされたとき、一体何人くらいが同じような症状であったかと思うと、泣くに泣けない状況である。
悲しいかな、作業した乗組員はしばらく生き続ける羽目になり、治らないとわかっている放射能の症状で延々と苦しみ続けながら死んで行ったのである。

原子力潜水艦は動力としては素晴らしく、放射能さえ無ければ非常に快適なシステムになっているらしい。
この世に真にクリーンなエネルギーを見つけられる日が来れば良いのだが・・・

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