※ネタバレしないと語れないため、まあまあネタバレしています。ご注意ください。
ボーはおそれている。初日から「狂気ぶっ通し」なんて感想が並んだが私に言わせればヘレディタリーやミッドサマーの方がやばい。なぜなら、今回あまり人が死なないのだ笑。
アリアスターが大好きな、「断頭」は出てくるが、電話を通して語られるだけである。今回は、死体の数がとても少ないので、その点では安心して見られる。
多くの男子にとって、母親は畏敬の対象でもあり、恐怖の対象でもあるだろう。
ボーは私より2個上、もう50になろうという年齢で、まだ母親を恐怖している。
マザコンといってもいいのだが、冒頭のセラピストとの会話からわかる通り、母を愛しているし愛したいのだが、とにかく母が怖いのだ。ほんのちょっとのミスでキレられ、行動を抑制される。なのに二言目には「愛している」と言われる。実にアメリカらしい。グレタ・ガーウィグの母親像もそうだ。アメリカ人の母親は二言目には「愛している」を免罪符のように使う。
母に束縛されて育ったボーは、ちょっとした決断ですら人に意見を聞いてしまう。食べ物を見るとそのリスクについて語ってしまう。優柔不断で臆病なおじさんに育ってしまったのだ。
実家に帰るためにお土産のマリア様を買い、その裏に何度も「ごめんなさい」を書くボー。母のことを愛しているが怖くてすぐに謝ってしまう癖がついているのがわかって、心が痛む。
だが、しかし母親の異常性について、ボーは気づいている。50近くで童貞なのも、母のかけた呪いのような嘘や、行動の抑制によるものである。
ただ、この映画には理解し難い面も多々ある。
例えば、そんなに臆病なボーがなぜ、あんなに治安の悪いところに住んでいるのか?
私はこの映画を見る前に少しだけツイッターで学習していた。どうもアリ・アスターはユダヤ系であるために、ボーの道中を「ユダヤ人のロードオブザリング」と表現したらしい。
それを当てはめると治安の悪い家のことも少し説明がつく。ぶっちゃけあれはニューヨークみたいなもんだ。ゴッサムシティだ。もちろんゴッサムより治安が悪いが、大金持ちの母がいる割に、ボーはたいした就職はできなかったのだろう。
そして、ユダヤ人と捉えると、ボーは自分の聖域である部屋の鍵を奪われ、ついには家にも侵入され、仕方なく成り行きで裸で家を飛び出すことになる。これは、ユダヤ人が財産を根こそぎ奪われてエルサレムを追われたことを意味するのではないだろうか。
かなりギャグテイストに描かれているけどね。
確かにボーが家を飛び出してからはユダヤ人の旅と捉えると非常にわかりやすいので、それでいいと思う。逆にその説明がないとなぜボーが理不尽な目に遭っているのかちょっとわかりにくいかもしれない。
序盤は、「エルサレムを追われるところまで」。
中盤は、事故に遭い知らないご家庭に匿われるシーンで結構長い。一応現実だと思うが、ずっとカメラで監視されているらしく、しかもなぜか未来もチラ見できる。これは今でも謎だ。ボーの未来は決まっているということなのか。ちなみに夢オチはなかった。今までの映画を鑑みるに、アリアスター監督に夢オチなんてしょっぱい展開はないのだと思う。
後半の前半(笑)は美しい演劇の世界だ。そこでボーは、理想的なユダヤ人の生き様みたいなものを夢見る。これはおそらく、「ボーがまともに生きられていたら」見れた人生なのだろう。ホアキンフェニックスの演技はここが真骨頂だった気がする。夢想しているのに窓からスマホで写真を撮られるあたりが、現代人だなと思う。ここもギャグか。
この演劇の世界は本当に美しいし、このままでも映画にはなるかもしれない。ただ内容があまりにもありきたりだし、所詮、演劇は夢なのだ。これは比較対象というところだろう。
後半の後半は、ついにやっと実家に辿り着き、ここからはユダヤ人云々は関係なくなる。ボーは最初から対峙しなければならなかった母との戦いが始まるのだ。
だが、母と殴り合いをするわけにもいかない。
この映画はファンタジーだ。きっと色々なメタファーが詰まっていて、例のジブリ映画みたいになっているのだろう。
例えば屋根裏。アリアスターの大好きな屋根裏部屋にはやはり、恐ろしい秘密が隠れていた。というか、ボーはどうも一部の記憶が欠損している気がするのだ。
さてここまで「母」の話ばかりであったが結局「父」とは何だったのか。
母は優秀だったが、父はやはり邪魔だったのだろうか?父のようなものを2回見ているのだが、結局父は化け物として扱われて終わりだった。現実だとは思えないので、まあ、離婚したとかのメタファーなのだろう。
結局信じられるのは、母の口から出る恐ろしい言葉の数々だ。あれは本当かもしれない。もしアリアスターが自分の母をモデルにしていたのだったら、とんでもなくヒステリックだが、あり得る。
これがアリアスターの母親への復讐なのではないだろうか。プレミアに母を連れて行ったと言っているし……
おそらく、母は自分の労力を無駄にする息子が結局嫌いなのだ。息子も、何をしても反対してくる上に好きな女とも付き合わせてくれない母のことが、本当は嫌いなのだ。だけど、親子の縁を切ると不利益が出る。と思う。まあ、縁を切るのもありだけど、縁は切らない方がなんだかんだとお得ではあるのだ。それに、本当は好きでいたかった。それはわかる。
この映画が評価できないのは、ラストシーンだ。
結局息子と母どっちが悪いのか?裁判のようなものが行われるが、息子はずっと不利だ。母は息子の発言をいちいち勘繰ってくるので、ボーがポンコツで正直に話していても信じてくれない。それに母はやっぱり強い。これは理不尽だ。
確かにアリアスターの映画って理不尽が描かれるし、バッドエンドばかりだけどこれはちょっと、どう受け止めていいのかよくわからなかった。
それにこれでは、ボーがいつまでも優柔不断なポンコツおじさんで自立できずに終わりである。
どうも他人様の解釈を見ていると、最後は罪悪感で自殺したのでは?という方もいるのだが、エンディングとしてはそれでもいいのだが、ボーは本当にそれで良かったんだろうか。そこまで自分の「イノセンス」を守る必要があったのだろうか。その純真さが今回のテーマなのだろうか。
私は子供は親に反抗してこそ親から自立できると思っている。親を恨むのではなく、恨む暇もないくらいに反抗するべきなのだ。決して彼らを恨んで妙な繋がりを残してはいけないのだ。映画にある通り、「足枷」を切って、次に進まなければならない。
テーマはとてもわかりやすいし、なんなら話もわかりやすい。
私は、気の狂った退役軍人キャラ「ジーヴス」がものすごい好きで、出てくるたびに大爆笑だった。特に、ボーが真面目に電話してる時に後ろでぴょこぴょこ顔出したりしてるのが楽しかった。そういうコメディの才能がありながら、ちょっと中途半端かな。
できれば大爆笑変態コメディホラー映画にしてほしかった。上のような、妙なキャラクターや斜め上の展開はゴールデンカムイみたいですごく楽しいので。
なお、アランウェイクとの共通点は結構多く、アランウェイク慣れしてる私には特に違和感がなかった。
むしろ、ボーが気を失ってから気が付くまで同じ場所にいるのが不思議に感じた。アランウェイクなら別世界に飛ばされることが多い。
「これは俺の物語だ!」はアランウェイクと全く同じセリフだ。
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