2024年5月3日金曜日

飛行機で見た映画2:「ドント・ウォーリー・ダーリン」

この映画は序盤はまるでバービーのようだった。

綺麗な街に住む主人公「アリス」は今時まさかの専業主婦で、夫「ジャック」がとても重要な仕事についていて、毎朝彼を笑顔で送り出し、昼間は同じ会社に勤めている男性の奥さんたちと喋ったり、買い物したり、家事をしている。

この時点で違和感満載である。

怖いのは割ると何も出ない卵のシーンである。

だんだん嫌な予感が増してきて、近所の主婦仲間が一人「我々はここにいるべきではない」と叫んだあと、自殺するシーンをアリスは目撃する。が、それもなかったことにされる。

フローレンス・ピューのキャラクターでそんなのを放っておけるはずがない。

彼女はある日、閉塞感を感じてスーパーへのトローリーバスに目的もなく乗っていたが、飛行機が墜落するのを見てしまう。

だが運転手は見ていない。ここは、「見えていない」のか「見たけど否定している」のかでいうと前者らしい。アリスの妄想の可能性もあると私は思う(この映画は、卵も含め謎が多い。アリスがこれは現実ではないと気づき始めているんだと解釈している)。

この時のアリスの「あんたどうしちゃったの?私は助けに行くわ!」が実にフローレンス・ピューである。

(後半で彼女の本当の職業が明かされると納得である。人格は変えられなかった)

アリスは外に出て、真実に気づいてしまうが、結局システム監視者に捉えられ、再洗脳を受けてしまう。

このあと「本当の現実」が映し出されるのだがなかなか恐ろしかった。


ジャックはアリスを「本気で愛している」というのだが。

それは本当に愛だろうか? 

私は「夫婦の在り方」についてこの映画で真剣に考えてしまった。

女性に稼がれたらそりゃ立つ瀬もないかもしれない。だがどっちだっていいではないか?男性が専業主夫をやったっていい。育児もやってくれれば非常に助かる。

問題は男性がそれを「幸福」だと思えないところなのである。

勝ちたいとか、優位に立ちたい気持ちはわからんでもない。が、愛している人に負けていただくという欲望はどうなんだろう?それは愛なのだろうか?

これは私も経験あるからいうけど、

いうこと聞いてくれるから愛してくれている は真実ではないし

支配しているから愛せている も真実ではない。

支配と服従は所詮、会社の関係と同じだし、無償労働は奴隷制度に他ならない。

無償労働と施しも大きく異なる。

施しというのは、自分の満足している価値を上回った残りの価値をプレゼントとして誰かにあげることである。ギブの精神は納税や無償労働とは全く違うのだ。

それに今まで見た「昭和の夫婦」って何パターンかあるけど、結構多いのが自分の手に負えない女性を娶って結局支配しきれず、先立たれたりするパターン。


それに少子化を改善するために結婚を奨励するのは筋違いだと思う。

結婚は実にトラブルが多い。トラブルのない夫婦など聞いたことがない。

結婚制度を一部無視して、施設で育てるやり方も私は悪くないと思う。国が手厚くサポートすれば、結婚せずシングルマザーの状態で日中はプロが子供を預かり、女性は働きに出る、でもいいと思うし、なんなら預けっぱなしでも別にいいんじゃないかと思う。

古いしきたりに強く洗脳されているのは男性の方だし、私はそれがとても可哀想だと思うのだ。だって昭和の夫は、自分の稼ぎは全部嫁と子供に吸い取られていたからね。それでも余るから、なんとか楽しめてきたけど、今の時代はそうもいかないだろう。

確かに男性が大人になるにあたって、結婚して子供を持ち、責任を背負って生きる過程は必要かもしれないが、私に言わせれば多くの男性は結婚してもその責任感をちゃんと持っていない。子供のまま大人になり、自炊も満足にできない人が多い。


だから結婚は必ずしも必須の通過儀礼ではないと思う。


だが、多くの男性は恋愛に強い憧れを持っており、その力は乙女ゲームなんて遥かに凌駕している強い本能である。それが彼らの哀れな部分なのだ。


飛行機内で見た映画1:「バタフライ・エフェクト」

配信にない映画で有名なものの一つに「バタフライ・エフェクト」がある。

先日台湾行きの飛行機内の映画ラインアップがなかなか素晴らしかったのだが、その中にこの映画が鎮座していた。

成田から台湾は3時間くらいしか時間がない。帰りは2時間ちょっとである。1本ギリギリ見られる感じであった。

しかも日本語字幕はなし。吹き替えもなし。台湾行きなのであっても繁体字である。 

雑音の多い飛行機の中で、必死で英語のヒアリングをしたが、英語がたとえわからなくても、何が起きているかはわかるかもしれない。

それでも序盤は主人公エヴァンの記憶がポンポン飛ぶので理解するのが難しかった。

エヴァンは少年期に、何度も記憶がブラックアウトし、突然「結果」に飛んでしまう。気づくととんでもないことになっており、母親にも「何があったの、言いなさい!」と問い詰められ、「本当にわからないんだ」と彼は泣く。そこで観客も「演出として飛ばされたわけではなく、エヴァンは時々ブラックアウトするんだ」とわかる。

この後7年後に話が飛ぶ。

エヴァンはアシュトン・カッチャー演じるイケメンに成長していた。

記憶のブラックアウトが病気だと思っていた彼は、すっかりブラックアウトが治って楽しそうに生きていたが、過去の記憶がないせいでケイリーを傷つけ、死に追いやってしまうのだった。そこからようやく彼は問題意識を持ち、過去に飛ぶ能力を手にいれる。

脚本が素晴らしかったけど、私は「7年間無責任に記憶を放置していた」のがいいのか悪いのか、それだけは気になった。

しかもケイリーと別れて引っ越すとき、彼はわざわざスケッチブックに「I'll come back for you」と書いて見せている。

必ず戻ってくると。

実際、ケイリーが死んでから戻ることにしたわけだが、ちょっと遅くないだろうか。


まあそれはいいとしよう。エヴァンは自分が病気だと思っていたのだから、仕方ないのかもしれない。


問題は、過去を変える能力を持ちながら、全然上手くいかないところなのだ。

エヴァンはこう見えて優しい青年だった。

ケイリーだけを救うことができなかったので(個人的には、ケイリーさえ救えればと思うのだが、結局他人の嫉妬に巻き込まれて酷い目に遭う)全員を救おうとすると自分がさらに酷い目に遭う。

ショッキングな展開が連続し、同じ能力を持っていたと思われる父が精神病院に入っていた理由がなんとなくわかってくる。

脚本は時系列なのに、ちゃんとわかるように展開していくのが素晴らしかった。


よくあるSF映画で、素晴らしい能力を手に入れたのに結局現実をほとんど変えることができなかった、というのはあるある。しかも大体のSFは最後バッドエンディングが多い。

教訓とも言える。だがエヴァンが本当に賢いなと思ったのは、エンディングである。要は欲をかきすぎると失敗するということである。アメリカ人は欲が強いが、本来はSFとはそういうものなのだ。過度な技術や能力を手に入れて自分を壊していく話が多い。

エヴァンは最後にとあることを諦めるのだが、なんとも切ないエンディングだった。


だが私はこれを現実に当てはめるとものすごい腹落ちするのである。


男女逆に考えたとき、私には度々、しつこく付きまとう男が現れる。

だが私は一回失敗しているし、彼らの狙いも知っている。残念だが、どんなに強く求められても自分の気持ちが動かない時は彼らに期待してはいけないのだ。男性は本能が強い。あとも先も彼らは考えていないし、大体「どうにかなるさ」と思っている。それ自体はいいのだが、「どうにもならない」と女性が思っている時は絶対に同意してはならない。

男性からの熱烈な好意は、お菓子をもらったくらいの気分で受け取るようにしている。彼らは私の一時的なファンなのである。今の私が好きでも60代になれば興味をなくすかもしれない。

エヴァンはケリーと両思いだったのに、どうしてもうまくいかなかった。神のいたずらなのかもしれないが、これは私の人生ではしょっちゅう起きることだ。私が好きになった男性がいても、無理やり付き合ったら本性が正反対だったり、優しかった人格が捻じ曲がったり、会社ぐるみで強引に邪魔されたりと信じられないドラマが次々と起こる。もし運命があるとするならば、それはとても残酷なものだと私は感じている。

私に運命を感じている男性というのは複数いた。彼らはその時だけは私をランキングトップに据えてプライズのように執拗に狙ってくる。だが生きている女性に隙はない、隙があるのは恋をしている男性の方である。だから男性による女性の殺害が起きるのである。殺さないと手に入らないからだ。

現実は小説より奇なりというが、私の人生に起こったことを脚色すれば簡単にバタフライエフェクトくらいにはなるかもしれない。