2022年7月10日日曜日

ザ・バットマンのブルーレイ本編を見ながら思ったこと

まずは自宅の再生環境に愕然とした。

そりゃドルビーシネマに勝てるわけないし(笑)、普通の映画館にだって勝てるわけがない。だけどここまで音声が聴こえなくなるとは、とか、階調幅の少なさ(暗くて見えやしないw)と画面の荒れ具合(特に薄暗いシーンだと顕著にISOのノイズを感じる)には愕然とした。

とりあえず、未来への投資として4KUHDバージョンを購入したので、さっそく4KUHD再生ができるモニタを探し始めた。私の部屋は狭い。一人暮らしには十分な広さではあるものの、所詮は会社員だ。

部屋の広さのために家賃を上げるのはやはり躊躇するところではあり、特に映像機器は場所を取るので、いつもゲームとパソコンは同じモニタにしてきた。映画の再生もこのモニタか、iPadというありさまである。モニタはもう10年くらい使っており、時々ちらつきが気になってはいた。そろそろ買い替え時だったので、映画のディスクがきっかけになるのは良いことだ(PS4も正直このモニタだと十分な性能が発揮されていないと思われるので、PS5のためにも探し始めてはいた)。

まあこんな、おんぼろモニタの話はこの辺にしておこう。
ここからは最近日本で起きた恐ろしい事件の話をするので、苦手な人は読まないで欲しい。

 

 

このブルーレイディスクが家に届いた週の金曜。安倍元総理が暗殺された。私は会社にいて、スマートニュースの通知でそれを知った。その時はまだ、「銃撃された」とあり、殺害は確定していなかったが、首と胸を撃たれて心肺停止と書いてあり、望み薄だなとすぐに悟った。撃たれた部位からして、致命傷としか思えなかった。

日本の法律ではそうそう簡単に銃が買えるはずもなく、そのためなのか安倍元総理の警護は実にずさんな状態であった。銃の怖いところは飛び道具だから、接近しなくても攻撃できるところだ。日本では、私の肌感覚では、「警備服を着たおじさんが立っている」だけでそれなりに緊張感があるもので、実際に警護がどのくらいできているかなんて、想像もしていなかった。あれだけ戦争や潜入のゲームをやっていても、実際にそういうオケージョンに遭遇することはまずないと思っていたし、金曜の街頭演説に集まった人たちもそう思っていたに違いない。

私は、この事件で一番驚愕したのは、犯人が使用した凶器であった。

それは手作りの銃だとされている。

私は現場の生々しい動画はあえて見なかった。やはりフィクションではない暗殺は金曜の夏バテの身体にはこたえる。想像しただけで気が滅入った。しかし、その銃とやらには興味が湧いた。

どうにも、映画のリドラーに似たものを感じたからだ。

リドラーは銃は購入したもので実際に狙撃をするし、フォロワーも銃をどこかで買ってきて、最後らへんは撃ちまくる。こんな光景は、日本ではまずありえないが、今米国では警官が銃を乱射するので問題になっているらしい…。

リドラーは映画の中で、象徴的なダクトテープを使用する。サランラップ(cringle wrap)で髪の毛を落とさないようにし、殺害した人物はダクトテープでぐるぐる巻き。今回の事件に使われたお手製だというその銃がテープでぐるぐる巻きになっているのを見て、似たようなものを感じ、背筋が凍った。そのあとも、犯人の部屋に警察が重装備(あんな装備は初めて見たかもしれない)で突入したあと、爆発物処理車がやってくる。犯人は爆弾もこしらえていたのだ。リドラーも、首に巻く爆弾や、もっとおぞましい装置などを自宅でこしらえていた。

こんなのは映画だ。そう思いたい気分だった。だが日本にもこんな事件が起きるようになってしまったのだ。

リドラーの動機は幼少期のトラウマにあり、今回の犯人も似たような印象を受ける。母親がらみの恨みらしい。それに外見も大男でもなく、メガネの中肉中背の青年だ。

私は、何がきついと感じたかというと、やはり演説中に本人を撃つパターンが一番嫌だなと感じる。もちろんほとんどの映画はそういうパターンだし、ザ・バットマンでは危険だと止めているのに「民衆に勇気を持たせたいから」と市長候補が舞台に立ち、喋り始めた直後にリドラーのフォロワーに脇腹を狙撃されて倒れる。

筋書は大体同じだけど、やはり白昼堂々と平和なはずの日本で、一般市民の目の前で、しかも舞台の上でもなく、路上で、暗殺が行われたということが恐ろしい。米国大統領選挙レベルであればそのような事件が起きる心構えが少しでもあったかもしれないが、元総理が街角で銃弾二発で倒れる国になってしまった。

 

マット・リーヴスの脚本はリアリティがあると評価されているが、今回の事件はまるでそれを裏付けるかのような内容で、監督は実際に行われている犯罪にとても詳しいのかもしれない。

ザ・バットマンのリドラーの犯罪は、ゴッサムの政治が正常に良心的に行われていたら、防げた可能性が十分ある。そういうメッセージも込められた映画だと思う。ブルースは政治家ではないけれど、加担する必要性や責任があることも示唆されていた(実際に彼が20代で少しでも責任を正しく理解して行動を取っていれば違ったかもしれない)。 そしてそれは一般市民とヒーローを隔てるものではなく、全員が等しく、考える必要性があるということなんだと思う。

自分が生きているこの街と国の政治は誰のものなのかということを。


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