2024年4月1日月曜日

「オッペンハイマー」の個人的な解釈

今回はクリストファー・ノーランにしてはファンタジー色が全くなく、IMAXで観る必要性は確かに薄かった。個人的には音響の素晴らしさが特徴的だと思うので、映画館で観る必要はあると思う。

物理学以外の点でも難解で字幕を追うのに必死、字幕なしで理解できそうなのは妻のキティのセリフくらいである。


この映画は、ただオッペンハイマーの栄光と盛衰を描いたものだと思う。半生。オッペンハイマーの内面を描いているため、自伝のような感じで。

物語としては、過去を回想していく形にはなるが、ケンブリッジの留学時代は短い。せいぜいホームシックだったことと、数学が苦手(意外だが、サイエンス好きとしては共感するものがあった)、実験が苦手なこと、なのだが、ここで重要な人物と出会い、物理への道が拓ける。

物理学に自信をつけたオッペンハイマーは帰国後大人気教授となるが、共産党に傾いているのが後日仇になる。(が、ここはオッピーのせいではないと思う)

ドイツが核分裂を発見したことで、オッピーの周りはすぐにそれを実験し確証する。この時点でオッピーの頭には「爆弾になる」とわかっていた。

あれよあれよと進んでしまう核爆弾の構築。「ロスアラモス」はオッピーの提案で20億ドルをもかけて街を作り、街全体を実験・開発場とした。これはアステロイド・シティの元ネタらしい。

この時代は流れが早く、7月に実験が成功したら8月に日本に爆弾を落とすともう決まっていた。ヒトラーが自殺した後、アメリカは早く日本も降伏させたいと思っていたのである。(無論ロシアに対して優位性を持ちたいのだと思うが)

この「日本に落とす会議」は重要な会議である。私に言わせればこの時代の日本は世界の悪役であった。ヒトラーが自殺したらもう日本の敗北は目に見えていただろうし、様々な口頭も含めた戦争の記録を見ても、日本は悲惨な状況を国民に強いていたのだ。

日本がしつこく「負けず嫌い」を通してくるであろうことを米国は理解していたので、マット・デイモン演じるグローブスが「2回落とす」とこの時点で言っている。

しかし周りは「日本に警告を出すべきではないか」と2回くらい言っているし、倫理観はしっかりあったと思う。(ストローズのWikiに「栃木の日光に警告を一個落としては?」という提案がある)

戦争映画によくあることだが、特に米国の場合「一般人(兵士も科学者も)と政府のお偉いさんや軍のトップ」との対比が描かれることが多い。つまり戦争をお偉いさんが利益重視で操作しているのを批判するパターンである。

広島に原爆が落とされた日、オッペンハイマーは大絶賛を受けるが、この時の彼の心理描写はぜひ映像で観てほしい。秀逸だ。

セリフだけ聴いていたら全日本国民とドイツ国民が激怒しそうな内容なのだが、彼の心は裏腹だった。

私はこの感覚を知っている。この感覚のせいで心療内科に通ったりして、結局治らず脱サラしたのだから。

ノーランはこの感覚を知っている人だと確信した。私だけではないのだ。


終盤というか、最初から連なるイベントとして、「オッペンハイマーがロシアのスパイかどうか」を問い詰める聴聞会がある。裁判ではないのだが、オッピーが水爆の開発に反対したのが表向きの理由で、最前線から外そうという動きが出ていたのだ。

だがこれを裏で操っていたのがロバート・ダウニー・Jr.演じるストローズである。

こいつが一番の曲者だった。

曲者なのだが、なんとも人間らしい。彼は科学者ではない。科学者に馬鹿にされるのが耐えられず、恨みを晴らそうとした人物である。

気をつけた方がいいのは、これは現実でも起きうることだということだ。この話はノンフィクションである。

どんな人間だって小馬鹿にされたら恨むだろう。ましてや、絶大な力を持った人間は相手を馬鹿になどしてはいけない。彼らが勝てないとわかっていたら、なおさら丁重に扱わないと、痛い目を見る。

オッペンハイマーはエンジニアのようなものだ。

私は日々エンジニアとお仕事をしているが、傲慢な人間を嫌というほど見てきて、相手にしてきて、本当にこの業界を辞めようと思ったこともあった。

だが、デザイナーにも傲慢な人間が多い。デザイナーの場合なぜか実装ができなかったり、大したものを作れない人間に限って肩書きだけで偉そうにする人間が多い。おそらく、できないから大きく見せなければと思っているのだと思う。

映画を通して、オッペンハイマーが傲慢だと思うシーンは少なかったが、実際の行動を羅列するとまあまあ傲慢な方だと思われる。何しろ女癖が結構悪い。この時点で私の中では絶対関わりたくない男リストに入れられてしまう。

先日見たナポレオンより、傲慢さは薄めに描かれている。これはノーラン監督の意図で、「傲慢に見えるかどうか」を観客に委ねているのではないかと思う。

だが、きつく尋問された理由は私に言わせればストローズを小馬鹿にしたのが原因である。もしストローズと仲が良かったら?おそらく、庇ってくれたに違いない。なぜならオッペンハイマーは共産党の一員ではない、彼は白だからだ。もちろんスパイでもない。


オッペンハイマーは自分のキャリアのために原爆を作ったのだと思う。あの時代、あれを止められる人はいなかっただろう。だが、彼ははっきりと後悔している。

トルーマンは「日本人は原爆作った人を恨まないよ」って妙にはっきりと言っていた。 

だが、私はこれも日常的に起きうることだと思っている。

例えば、私が前に辞めた会社では、流行りのキャラクターを使った子供向けのアプリを作ることになって、私はデザインをとても頑張った。だが、エンジニアのやる気は半分以下だった。その技術が扱える人が辞めてしまって聞く人がいなかったらしい。

トルーマンはいわばその会社の「ディレクター」である。彼女は、私に言わせればサイコパスの気があって、アプリにバグがあっても平然としていた。一応エンジニアには声をかけるのだが、誰も直してなどくれなかった。(そのエンジニアも独身女性の私の前でスキルをアピールする傲慢さがあった)

トルーマンなディレクターの使命は「アプリの制作費をクライアントからゲットすること」である。

バグのないプロダクトを納品することではないらしい。

私はあの時も、そしてその前も、オッペンハイマーのような気分になった。仕事でやったことだ。私はきっと給料のためにこれを作っている。

だが、どうだろう。そのアプリのレビューには悲惨なコメントが並んでいた。「子供が喜んで使いたがるのでバグを直してもらえませんか」と。

オッペンハイマーの偉業は、老人になってから評価された。だが私にはきっとそんな日は来ないだろう。それがサラリーマンだ。会社に勤めていたらそんなものなのだ。世の中にはこんな話が溢れ返っている。


それを悪いとも、良いとも言わず、淡々と描く良い映画だった。

ただそこにある「絶望」の感情は非常によく描写がされていた。

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