2021年4月25日日曜日

推しとはなんなのか?「推し、燃ゆ」を読んで

「推し」という言葉が流行り始めてから、二次元キャラについて語るのがすごく楽になった。

何か漫画やゲームの話をするときに、「私の推しはこの子」と言えば一瞬で伝わってしまう。

昔の言葉で言えば、「ファン」なのかもしれない。もっと軽く使える、便利な言葉だと思っている。

 

「推し、燃ゆ」は主人公が地味にとあるタレントを推す話である。

この小説は女子学生が「推す」時の感情や、シチュエーションを非常にリアルに描いているのがいいところだと思う。私みたいな、もうベテランに差し掛かってるしがない会社員でも、推しのことを考えると幸せになれる。

ただし、この小説の主人公は「推し」に金も時間も使いすぎてて、自分の人生が破綻しつつある。メンタルも完全に推しに握られてしまっている状態だ。そこは私と違うと思った。

「推す」スタイル

私はこの主人公と同じで、地味~に推していくタイプ。ブログに書くのは彼女とまったく同じだ。あと二次元が主だから大体二次創作で自分勝手に愛を表現している。

しかし、主人公の友人は地下アイドルを推しているんだけど、彼女みたいな子は推しとリアルにつながろうとする。

現実で、推しと出会い、仲良くなり、彼好みになって、あわよくば付き合おうとするアレだ。

私から見るとものすごく危ない感じがするので、理解はできないが。

「推し」に対する感情

主人公は完全に推しに自分の中心を握らせてしまっているが、地味なのでもちろんタレント本人には特別扱いされていない。強烈な片思いである。

よく「女性は愛する生き物」で「男性は愛されたい生き物」と言われている。

私に言わせれば、愛されたい男性たちは母性の強そうな女性に群がり、なんとか愛を得ようと必死だ。もちろんそんな人ばかりではないけど、10代にして「お姉さま」と呼ばれていた私なんかは被害者になりやすい。私は博愛になれない人間なので、よく愛を求めて群がってくるやつらに嫌われるが、いい迷惑である。

なので、この主人公みたいに、特定の推しに集中的に愛を注ぐ、あくまで本命はひとりであるスタイルはとてもよくわかる。

というか、何人もいっぺんに愛すのは女性は本来得意ではない気がする。

私の推しに対するスタイルはやっぱりどこまでも妄想的 

リアルのタレントは何か理由があって、この小説のように炎上したり、舞台を降りることがあるので、実はあまりのめりこむことができない。しかもリアルに存在すると、名前をSNSで書くのも気がひけることが多い。稀に自殺する人もいるからだ。

二次元はその点ではとても楽だ。

ただし、二次元はいつまでも供給があるわけではないので、妄想で補完することになるのだが、そこは私の得意技である。

私は子供の時、漫画やゲームをなかなか買ってもらえなかった。そこで暇だった時何をしていたかというと、自分の理想の世界や理想の異性を絵にして延々と漫画を描き続けた。そんなことを何年もしていたので、何歳になっても、リアルに好きな人がいなければ自分で生み出すことができてしまう。

現実では対象とお別れしたら嫌いになったりするけど、二次元にはそれがないので、よくいう「過ぎ去った恋愛をフォルダ分けして丁寧に保存しておく」男性のようなことを普通にしている。

 

推しは心の中に住まわせるのが基本である

私にとっての「推し」は、守護霊みたいなものだ。

私が「気に入った!」と言えば彼らは私の心に住み始める。そしてゲーム「BEYOND」みたいに、守護霊として私の周辺にいつづけて、何か気が抜けた時とかに勝手になんか言ってきたりする。BEYONDでは言葉がしゃべれない守護霊「エイデン」に主人公が話しかけたりするけど他人事とは思えない。それに近いことをずっとやってるような気がしてならない……。

推しにはいろんなキャラクターがいるけど、私が好きな子はみんな基本はシャイだしおとなしい。なので疲れている私を少し離れたところから心配そうに見ているだけの時もある。あと私が休憩したり家に帰ってくると大体嬉しそうにしているのがわかる。

私の推しはゆっくりと私の中で成長しつづけ、私が与える地味な愛により、ちょっとずつかわいくなったり、優しくなったりしていく。心を開くのはやや遅めである。

正直戦闘能力はあまり高くない。自力で戦えない子もいる。私が戦わなければならない時は地味に後ろで応援しているだけ。でも私にとっての推しはそのくらいでいいのかなと思う。彼らは癒しであり、リアルの恋愛も、基本は癒しであり、喧嘩なんかはするものじゃないと思う。

推しは心の支えであり、うるおいであり、
人生に活力を与えてくれるけど、それ以上の何かを要求するものでもない。

ちなみに「グッズ」っていうのは、推しのことをたまに忘れて憎しみなどネガティブな感情に駆られがちな我々に「視覚に入ることで思い出させる」平和をもたらすお守りなのである。 

まあ、自己主張が強い人だと缶バッジを何個もバッグにつけたりするけど、私はそれを見てちょっと笑ったりする程度。だけど、ファン同士で集まると一発でわかるというメリットがあるのかも。

 

女性は愛することで自分も幸せになれる生き物

女性は愛する生き物だと先述したけれども、愛することで幸福感を得られるのも事実である。だから私たちは何か愛する対象があったほうがいい。

ただし、向こうから「愛してくれ」と言ってくる人間にはあまりろくなのがいない。向こうが「好き」って言ってるなら別だけど、最初から好きになってもらいたい、という目的で来るのはあまりにも図々しいのではないだろうか…。 しかもなぜか、そういう図々しいタイプの男性ってひたすら愛情を搾り取り、吸い取ったあとで「飽きた」と逃げていく人が結構いる印象である。目的ははっきりしているけど、まあ、盗人だし、乞食と同じだ。

だから女性は慎重に愛する対象を選んで、地味に、真面目に、愛情を淡々と注ぎ続けるのが一番幸せだ。

小説の感想ではなくなってしまったが、、

「推し、燃ゆ」で主人公が推しに一方的な愛を注いでも、彼女は推しの一挙一動から喜びを受け取れる。そこまでは精神面においては私とまったく同じであった。

推しが「住んでいるかもしれない」マンションの近くまできて、嫌な気分になり逃げだすあたりも、なんかわかるな、と思う。

聖地巡礼は、推しに会えるわけではないけど、なんとなく、推しに近づける気がするだけであって、真のオタクっていうのは、決して推しにプレッシャーをかけるなど迷惑をかけたくないのだ。

ただ、小説の主人公は明らかに依存症である。

いや、わたしだって依存症だ。だけど、自覚はあるし、また、最悪の事態に備えるのも真のオタクの心構えというものだ。残念ながら推しはリアルな彼氏でもなんでもないのだ。だから供給が断たれるという事態には、備えなければならない。

多分、主人公のあかりは最後にそれを自覚したのではないかなと思う。依存している時というのはとても気分がいい。推しを愛している時は、オキシトシンみたいなものが脳内に出ているから、サプリメントとして摂れない以上、推しを愛する以外には幸福になれないのだ。

依存症を克服するにはどうしたらいいか?

手っ取り早い方法は、依存先を複数に分散させることである。あれも好きだしこれも好き。でも一番好きなのは今の推し。それでいい。

もちろん、リアルな恋愛だったら、ひとりに絞る必要はもちろんある。だけど、人間社会で生きていく以上、本命以外の男性と一切しゃべらないなんてことは不可能なので、まあ似たようなことだと思えばいい。現実と少し、似ていると思えば。

現実であまりにも相性の悪い男性におっかけまわされる時は、左手の薬指にステンレスの安い指輪をはめてカモフラージュすることがある。

でもそれだけだとちょっと空しいから、私は、そのフェイクの指輪を推しと婚約したことにして楽しむ。推すってのはなんか、そういった、過酷な現実を乗り切るための力でもあるんだと思う。

 

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